「蟹のいる町」

「蟹のいる町」

 

俺は蟹だ。

そう気づいてから早くも24時間が経過した。

あたりは真っ暗で光の影も見えない。

 

排水溝の脇にかくれて俺は佇む。

キシキシと軋む自然の音に俺は身震いする。

さて、これからどうしようか…。

 

 

 

昨日まで、俺は普通の男子高校生だった。

 

目覚ましの音で目を覚まし、乱れた布団を直す。

7時の指し示す目覚まし時計を見つめて、今日もまた1日が始まったことに軽いため息をつく。

仕方なく洗面台まで向かい、うがいをし、顔を洗い、寝癖を直す。

 

一度自分の部屋に戻り、時間割の確認と、メールのチェックをする。

またイチカから、サッカー部の勧誘のメールがきている。

部活には入らないとなんども言っているのに。

俺は、無理、と2文字だけ書いたメールを返信する。

 

再びベッドに転がり、ノートパソコンでネットニュースを見る。

この時間だけは、朝の唯一の楽しみだ。

世界の情勢を知ることはとても為になる。

そして何よりこの世にある多くの不幸な出来事を知ることは、僕の一つのルーティーンとなっているからだ。

 

今日は大阪で虐待された子供がなくなったらしい。

 

未来のある子供がなくなったのは非常に悲しい出来事だと思うし、虐待が許されない事は間違いないだろう。

 

という一般論は胸にしまっておいて、僕はニヤニヤと記事を読む。

 

そもそもだ、虐待された子供がなくなったという出来事を人は知る必要があるのだろうか。

それも、ご近所の〇〇さんとか✖︎✖︎くんがなくなったのであれば、勝手に耳に入ってくるだろうが。

 

こんなニュースは一般市民のカタルシスの消費に使われるだけなのだ。

人の不幸を煽る、不毛な報道なのだ。

 

きっとこの悲報に対して、関係のない大人があれこれと議論するのだろうな。

 

そう思うと俺の体はゾクゾクとする。

 

 

 

 

そうこうしていると、母親が僕を朝食に呼んでいる。僕はベッドに投げてあるヨレヨレの制服に着替え、家族の待つ食卓に向かう。

食い気のわかないまま冷めたパンを口に放り込み、牛乳で飲み込む。

 

玄関に行き靴を履こうとすると、2階からだるそうに妹が降りてきた。

 

「おはよう、ユカコ。」

「…おはよ」

 

妹から眠たそうな返事が返ってくる。

 

「おはよう、ユカコ。今日は学校行けそう?」

割烹着をきた、お袋が妹に聞く。

妹からは返事はない。下を向いて俯いている。

 

3ヶ月から妹は学校に通っていない。理由はよくわからないけど、多分人間関係だろう。

家族はしばらくは黙って見守っていたのだけれど、いい加減焦ってきたのか、最近は通信制高校への転入を薦めている。妹は了承していないみたいだけれど。

 

そのやり取りを見ていたうちのおばばが、口を挟む。

「由佳子。あんたもええ加減にしんさいや、もう16でしょうが、私が子供の頃はね、もう働きにでとったよ。トシもなんとかいいなさいや。」

 

我関せずと新聞を読んでいる僕の父親におばばは催促する。

 

「由佳子、とりあえず朝食は食べなさい。」

 

父親は少し剣幕になってユカコを叱る。

妹はその空気に耐えられず、また2階に戻ろうとする。

それを母親が引き留める。

 

母親としばらく喋ったあと妹は自室へ戻っていった。

 

「全く、大丈夫なのかい、裕子さん。娘の教育は。」

おばばは母親に小言を言う。

「まあまあ、おかあさん、学校の先生さんとも今話しておりますけん。」

そういって母親は苦笑いをする。このやり取りをここ1ヶ月は続けている。

 

この件に関して俺は、全く関わっていない。

というより、いつも通りだ。

 

妹に学校に行けだとか、ましてや悩みがあるなら話せなんて言ったりはしない。

なんなら休みの日には一緒にゲームをしたり、テレビを見たりするし、たまには一緒に散歩に行ったりもする。

 

夜の幹線道路なんかを一緒に散歩していると、急に妹が泣き出したりすることがあるのだけれど、こういう時は決まって最寄りのコンビニで買い食いをする。

 

そうしているとしばらくすると泣き止むから、そうしたら、家に帰るのだ。

 

 

…今日も妹は学校に行けそうもないな、そう思いながら俺は玄関の引き戸を開けて外に出る。

 

今日もいい天気だ。自宅の喧騒とは関係なく世界はのんびりとしている。

 

靴に足を合わせていると、靴下が少しずれたので直そうとして下を向いた。

 

すると、玄関の脇にある排水菅のある蓋の下から1匹の蟹が出てきた。

 

晴れた日に珍しいな、そう思って蟹を捕まえてつまむ。

 

飛び出た身からぎょろっとした瞳と目が合う。

俺はニーチェの言葉をもじって、こう呟いた。

 

「蟹の目を覗く時、蟹もまたこちらを覗いているのだ。」

 

くくく、これは学校に着いたら、イチカに話さないとな。

そう思って僕は呑気に笑った。

ああ、僕はこの時気づくべきだったんだ、こんな晴れ間に蟹なんて出てこないと言う事を。

 

 

つづくかも